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「音楽」には無限の可能性があります。

かつての偉大なミュージシャンたちが願った

世界平和の実現。

 

品位と謙遜が消えてなくなりそうな

この時代だからこそ

私たちには「音楽」が必要です。

“Make it a better place through Music”

音楽で世界をちょっとずつハッピーに。

 

私はいつも誰かの幸せのために音を奏で続けます。

「音楽」には無限の可能性があります。

かつての偉大なミュージシャンたちが願った

世界平和の実現。

 

品位と謙遜が消えてなくなりそうな

この時代だからこそ

私たちには「音楽」が必要です。

“Make it a better place through Music”

音楽で世界をちょっとずつハッピーに。

 

私はいつも誰かの幸せのために音を奏で続けます。

Following my heart

※この記事は2023年10月に執筆、その後必要な文言等を追記、その他修正されたものです。


僕は今、飛行機の中にいる。

アメリカ・ニューヨークでの2年間の生活を終え、これからの日本での新しい生活に心をときめかせながら帰国の旅路を楽しんでいるところだ。

ちょうどテイクオフから6時間経った頃、機内は暗い。ほとんどの乗客が寝静まっている中、僕はこうして戯言(つぶやき)を書いている。さっきまでアイマスクとマスクを装着し、毛布を掛け、エコノミーの狭い座席に完璧な体勢でフィットして、ぐっすりとまではいかないが、眠りについていた。が、急に頭の中に文字が溢れてきて、これは記録として残しておこうと思い、バックパックからラップトップ(たまたま韻を踏んだ感じになった)を出して絶賛執筆中だ。


今回のフライトはANA。2年ぶりに食べるANAの機内食やフライトアテンダントのサービスはやっぱり世界一。というのも前回日本に帰った時はアメリカの”United(ユナイテッド)”という航空会社を使ったわけだが、それがなんとも最悪の経験だった。以前アメリカの国内線(ニューヨークからロサンゼルス)で利用した時は、6時間の短いフライトで機内食もスナック程度、そこまで悪い印象は感じなかった。が、前回、国際線で初めて利用した時、ここまでまずい機内食があるのかと驚いた。CAのサービスも必要最低限、まぁそれが客に媚びない欧米のスタイルなんだろうが、それにしてももう少しどうにかならないか、というレベルだった。ANAやJALが当たり前の日本人からすると、アメリカの航空会社は”ディスガスティング・Disgusting(最悪)”だ。ANAとUnitedはスターアライアンスメンバーでよくコードシェア便を運行しているから、アメリカに行く際は気をつけた方がいい。


ANAの機内でUNITED(アメリカ様の航空会社)の改善ポイント(要するに愚痴)をパソコンに必死で打ち込むという、なんとも無秩序な状況(これをカオスというのか?)だが、ここまでの話は今回のブログのタイトルとはなんの関係もない。”Following my haert”、直訳すると「自分の心に従う」、つまり自分の直感を信じるということだ。思えば今まで21年間、なんとも自由に生きてきたと思う。母の影響で小さい頃から南米音楽に触れ、自然と楽器を覚え、5歳の時に初めて見たSISAY(シサイ)というエクアドルから来たバンドのパフォーマンスをきっかけに彼らの音楽にのめり込んでいった。彼らは”フォルクローレ”という南米の民族音楽とスペインの音楽が混ざり合ってできた混血音楽を演奏する。伝統楽器のケーナ(竹でできた縦笛)やサンポーニャ(葦で作られたパンフルート)、スペインによる植民地支配時代に持ち込まれた弦楽器(ギターやバイオリン)を使う。SISAYのメンバーの一人に憧れ、小学校の時にバイオリンを始めた。幸運なことに僕の通っていた小学校には西日本で唯一、管弦楽団があった。入団の際には楽器の適正テストが行われ、当時僕は顧問の先生からトランペットかコントラバス(背が高かったから)をやれ、と言われた。それでは入る意味がないと小学3年生ながら先生にバイオリンへの愛を必死に伝え、なんとかバイオリン担当にしてもらった。それから卒業までの3年間、毎日必死に練習し、最後の年にはコンサートマスター(オーケストラの長)を務めた。


それから中学、高校と帰宅部に所属し、「素晴らしい音楽家になるためにはとにかく場数を踏まなければ」と思い、ショッピングモールやイベントなどで演奏活動をした。高校卒業後は同級生のほとんどが大学進学か就職をする中、僕はニューヨークへ渡った。実は元々、東京のピアノ調律専門学校へ行く予定だった。オープンキャンパスにも行ったし、着々と入学の準備を進めていた。が、高校2年生の夏、僕の心の中で何かが起こった。「そうだ、ニューヨークへ行こう。」某キャッチコピーではないが、形容しがたい”何か”が僕のフィーリングと共に急に現れた。一度「〇〇をしたい!」と思うと、それを実際に行動に起こすまでは気が済まないタイプだった僕は、無謀にもニューヨーク行きを勝手に決め、まさかの急な方向転換をした。「なぜニューヨークなの?」と色んな人に聞かれたが、僕もわからない。なんでニューヨークなんだろう。先生や周りの大人たち、僕の同級生に渡米の旨を伝えたときはみんなの反応が『?』だったのを今でも覚えている。僕の母だけは違った。「行っておいで」とすんなり受け入れてくれた。母も若い頃、フランスへ行っていたらしく、おそらく海を渡ることの価値を知っていたのだろう。ちょうどあのウイルスが世界中に蔓延していた時期というのもあって、渡米の準備は思っていたより大変だった。準備を進める中で、こんな不思議なこともあった。山口の田舎だったにも関わらず、僕がアメリカへ行くと決めてから、僕の周りにニューヨークや海外での在住経験がある人たちが現れ始めた。決めた目標の方向へ進んでいくと、自然と自分に必要な情報や助けが近づいてくる、と聞いたことがあるが、まさにそれだった。


地元のコーヒー屋さんで半年間働いた(バリスタにも興味があった)後、2021年9月に渡米した。ニューヨークでの最初の一ヶ月は、、、、とにかく大変だった。渡航後の留学計画を立てていたわけでもない。とにかくニューヨークにいくことしか考えていなかった僕は、実際に現地に到着してからというもの、不安と孤独で毎日泣いていた。山口の田舎者が急に世界の大都市に出たのだ、言葉も人種も文化も違う、知り合いもいない僕は毎日とにかく必死に生きていた。最初の1ヶ月は34ストリートにあるニューヨーカーホテルの14階、語学学校の寮で暮らした。寮の周りにはマディソンスクエアガーデンやペンステーションなどがあり、10分歩けばあのタイムズスクエアにだって行ける。日本の東京で言う渋谷みたいな場所だ。田舎者にとってそんなところでの生活は決して快適ではなく(ホームレスがいたりマリファナの匂いがする)、何より家賃がモンスター級だった。世界一物価が高いと言われるニューヨーク。僕が実際に暮らした寮(シャワーとトイレ付きの一人部屋だが決して綺麗とは言えない)の一ヶ月の家賃は2600ドル、当時の日本円でおよそ40万円だった。まぁ確かにNYのマンハッタンで一人暮らしをしようと思うとしれくらいはかかる。が、高すぎる。家賃だけじゃない、レストランで食事をしても、スーパーで食材を買っても、東京の2、3倍の値段になる。「そんな生活をしていたら破綻してまうわ!(※山口弁ではありません)」と最初の1ヶ月で物価高の恐ろしさを身をもって経験した僕は、すぐに引っ越した。


この後ニュージャージーに引っ越すわけだが、思ったより長くなったので、続きはまた次の記事で。タイトルは「スズマ、州外に引っ越す」にでもしようかな。


今回のブログは「Following my heart(直感を信じる)」がテーマ。

人生は一度きりなんです。がっついて行こう。(僕の大好きなドラマ「ごめんね青春」4話より、蜂谷先生の言葉を引用)

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